東京高等裁判所 昭和48年(う)2301号 判決
被告人 佐藤勝
〔抄 録〕
そこで原審記録を検討してみると、原審鑑定人宮本忠雄医師作成の鑑定書には、その結論として「被告人は、本件犯行当時精神分裂病の幻覚妄想状態にあり、酩酊のため一層心的統合性が低下した時点で、病的体験に基づいて犯行に及んだものと思われ、その責任能力に重大な障害があったものと考えられる」と記載されており、同鑑定人は、右鑑定後証人としてさらに、一般的に、幻覚型の精神分裂病に患っていて、その病的体験によって犯罪を犯した場合には、責任能力がないとされているところ、被告人はかなり強固な妄想形成を伴う幻覚型の精神分裂病に患っていて、本件犯行は妄想幻覚に支配された行動であるから、本件犯行当時の被告人について、敢えて刑法上の責任能力の有無を問われれば、「ない」と答えるほかはない、という趣旨の補足説明をしているが、原判決は、被告人が精神分裂病に患っていたことは認めつつ、本件犯行当時における被告人の精神状態は心神耗弱の程度にとどまり、いまだ心神喪失の状態には至っていないと判断している。
当裁判所は、事実の取調として、鑑定人新井尚賢医師にあらためて鑑定を行わせたのであるが、検察官が、前記宮本鑑定においては、もっぱら鑑定人による面接問診の結果だけが鑑定の資料に供されていて、本件事件記録に現われた当時の状況や被告人の供述があまり顧慮されていないのではないかという疑問を提起していることに鑑み、新井鑑定人に対しては、鑑定を命ずるに当たり特に、事件記録をも十分検討されたい旨の希望を述べた。而して同鑑定人作成の鑑定書によると、その鑑定結果の骨子は、<中略>
というのであって、被告人が本件犯行当時心神喪失の状態にあったという結論、および、そこに至る理由づけの大綱においては、宮本鑑定人の見解とほぼ同一である。
検察官は、被告人は犯行直後における捜査官の取調に際し、幻覚・妄想のあったことを訴えていないこと、両鑑定人による面接・問診は、いずれも犯行後長期間を経過したのちに行われたもので、拘禁反応の影響も考えられることなどに徴すると、被告人が本件犯行当時果たして精神分裂病の幻覚・妄想状態にあったかどうかが疑問といわざるを得ないし、仮りに、被告人が精神分裂病に患っていたとしても、被告人は、犯行当時までの数年間を一応社会に適応しながら通常人として過ごしていたものであり、かつ本件犯行の動機も通常人に了解可能なのであって、その症状はかなり軽く、すでに寛解期にあったものと認められるから、被告人については、少なくとも限定責任能力の存在を肯定すべきである旨主張する。
しかしながら、新井鑑定人作成の鑑定書、および、同鑑定人が当審において証人として供述したところによると、
1、精神分裂病患者の対人的な感覚は、普通の知覚とは異なるもので、幻覚・妄想というような微妙な心理状態を自ら捜査官に供述することは難しいが、鑑定人による問診の結果では、被告人は、被害者および栄治に対しかなり持続的な被害感情を持っていたことについて、現在では不関的な態度で表現するものの、その妄想を否定することは絶対になく、その確信を崩さないし、また被告人がうそを述べているとは到底考えられないから、犯行時には妄想状態にあったものと考えざるを得ない、
2、鑑定時において拘禁反応の影響が現われていたことは否定できないが、それは主として被毒妄想という形をとっていて、犯行時前後にみられた被害妄想の方はむしろ色あせたものになっている、
3、犯行の動機が一見了解可能のように見えても、被害者に対する直感的な感じ方が普通人と異なり、状況に対し非常に敏感でかつ通常人とは違った解釈の仕方をするものであるし、また被告人が、犯行直後に悔悟の気持を示すような言動をしたとしても、その感じ方の内容が、普通人が考えるような本当の意味での申し訳なさとか自責の態度ではない場合がある、
4、犯行時における被告人の精神分裂病の症状は、拘禁反応の影響を考慮に入れても、人格水準の低下などからみて、鑑定時と同じく中等度のものであったと考えられる、
というのであって、検察官の疑問とする諸点についても、精神医学の専門家の立場から、それなりに納得し得る説明がなされている。もとより本件においては、資料の不足などもあって、鑑定人としても解明し切れなかった部分があるように窺われるし、当裁判所としても、右鑑定についてなお疑問とする点も皆無というわけではないが、だからといって、右鑑定結果を左右するに足りる事由があるとはいい難く、他に、本件犯行当時被告人に責任能力があったことを確認できる証拠も見当たらない。そして本件においては、いずれも経験豊かな精神医学者であるふたりの鑑定人の結論がほぼ一致していることに鑑みても、被告人の責任能力の判断に当たっては、結局これらの鑑定結果を尊重するのほかはなく、被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあったものと判断せざるを得ない。
したがって、被告人の本件犯行について、限定責任能力を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があることになるから、論旨は理由がある。
(矢崎 大沢 本郷)